幸せは、獲りに行けない

「幸せになりたい」って口にする人を見ていると、
なんだか少し、胸がざわつくときがある。
必死であればあるほど、その言葉が遠回りに見えてしまうからかもしれない。

ふと思った。
“幸せ”って、獲りに行く“物”じゃないのかもしれない。
それは何かを達成した先にあるものじゃなくて、
ただ、日々のどこかに差し込んでくる“純度”のようなものなのではないかと。

そう考えるようになったのは、
若い世代にお金が貯まらない理由を考えていたときだった。

もちろん人それぞれの事情はある。
だけど、大きく分ければ三つしかない気がした。
仕事が悪いこと。周囲が悪いこと。そして、頭が悪いこと。


仕事が悪い

これは、選び直せるうちはまだマシだ。
若いなら転職だってできるし、スキルを積むことも可能だろう。
でも、年齢や職種的にキャリアアップが望めない状況にいるなら、
思い切って“暮らしの形そのもの”を見直す選択もある。

たとえば、収入よりも支出をぐっと減らしてみるとか。
あるいは、制度の中にちゃんと用意されている「最低限の保証」に目を向けてみるとか。
一般的には「それって逃げじゃない?」と捉えられがちだけど、
実際には、限界まで追い込まれてもなお“どうにか立て直そうとする動き”だと思っている。

時間が余ってしまうなら、そのぶんの手間と余白を、
料理や散歩や読書に注いでみてもいい。
派手な結果は出なくても、生活がじわじわ立ち上がってくる実感がある。
むしろそういう時間の中でしか回復できないものが、確かにある気がしている。


周囲が悪い

これが絡むときの厄介さは、何が「悪」なのかが見えづらいことだ。
殴られるとか、怒鳴られるとか、わかりやすい暴力ならまだいい。
でも、ちょっとした貸し借りのなかで搾取されていたり、
「お前のためだから」とか「お前しかいないんだよ」みたいな言葉で、
じわじわと金や時間や尊厳を奪われていたり――そういうケースの方が、よほど多い。

薬物を勧めてきたり、妙に持ち上げてきたり、
一見すると“仲間”っぽく見せかけて、
実はその実、崩れていくのを見て楽しんでいるようなやつらもいる。

そんな関係からは、とにかく逃げていい。
証拠を残せるなら残して、距離を取れるならすぐに取る。
それでも執着してくるようなら、もう遠慮なく警察に頼っていい。

「こんなことで?」と思っても、
“こんなこと”がじわじわと自分を壊していく。
情があっても、それが毒に変わっているなら、見切るべきだ。
あとで「あのとき切ってよかった」って思えるようになるから。


頭が悪い

これはたぶん、いちばん難しい。
完全に治ることはないし、改善には地味で根気のいる作業が必要だ。

けど、全く無理ってわけでもない。
たとえば車や電車をやめて、自分の足で歩くようにするだけでも、
何かが少し変わることがある。

道すがら、変わった外観の店に惹かれて入ってみる。
店主と話しているうちに、なぜか定期的に通うようになる。
今では、その時間が自分の中で妙に“引っかかっている”。

以前の自分は、休みのたびに飲食店で8000円くらい使ってた。
今はその店で、たった800円で済んでいる。
でも、満たされ方は逆に深くなった。
なぜそうなったのか、言葉にはしにくい。
けど、「幸せ」って、たぶんそういうことなんだと思った。


「良い」は獲りに行くもの。
「幸せ」は感じてしまうもの。

この違いを取り違えると、ずっと空腹感だけが残る。

たとえば、稼いで高級車を買う。
思い出の場所にドライブする。
これは「良い」を手に入れる行為だ。

でもその車のボディに、
日々の手入れで生まれた艶と光がふと目に入って、
なんとも言えない高揚が生まれる瞬間がある。
それは、狙って得たわけじゃない。
磨き続けた“結果として感じた”だけだ。

「幸せ」は、条件じゃない。
構造でもない。
偶然と努力が織りなす、刹那的な感覚。
それがたまたま濃く感じられた瞬間を、人は“幸せ”と呼んでいるだけだと思う。


だから、
「幸せになりたい」と言って、
何かを“狙って”追いかけている人を見ると、
やっぱり少し、遠く感じてしまう。

幸せって、
歩きながら足元に落ちている光に気づけるかどうか、
ただそれだけの話なのかもしれない。

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